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「震災の後で」


~あれから2ヶ月~

5月11日。震災から今日で2ヶ月。
やっと市内の友人達に会う機会とか電話で話す時間がとれた。

意外な事に震災直後は同じ福島市内に住む友人達とはあまり会えなかった。

ようやくお互いが落ち着いて来た感じになって、
そういえばどうしてたのかなという感じで電話だったり会うようになった。
あの震災の時は、皆同じような境遇で同じように乗り越えていたみたいだ。

電気、ガスの復旧は時間的には早かった。
うちの電気は一瞬消えただけだ。おかげでネットも繋がった。
地域差があって、同じ市内でも二晩くらい電気が無い生活をした友人もいた。
そういう友人は、ラジオで情報を聞いて車のナビで震災の様子を見たそうだ。

でもそれに比べると水道は1週間から10日くらい、長い人はもっと復旧に時間がかかった。
各地区でそれぞれ違いがあったが、皆、ひたすら我慢していたようだ。
私と同じように、ペットボトル3本分の水をもらいに3時間くらいは普通に並んだそうだ。
とにかく、そうしないと水がまったく手に入らない時期があった。
普段、ジャブジャブ使ってる水がなんと有り難い事か、まさに身を持って経験した。

また、井戸水とかのもらい水は、あちこちの友人達もお世話になったそうだ。
私もそうだった。友人の実家のお宅からいただいた。
こういうありがたさはずっと忘れられない。

その後には、やはりガソリンだった。
ガソリンは本当に友人達も皆ひどい目にあっていたようだ。
会社とかが休業になってしまった旦那さんが、ガソリンを入れる専属になって担当していたとか。
私も5時間並んだけど、あの数時間は本当につらい。

今現在は普通に通れる国道の脇に、
あの頃、何百台もの車が何時間もガソリン欲しくて並んでいたなんて、今考えても信じられない。

でも後で聞いたら、そんなに苦労しないでガソリンを上手く入れた人達もいたそうで、
それを聞いたら、なんだか嫌な気分になった。所詮そういう人達はどの世界にもいるのだろうな。

さらに、食べ物。
スーパーの建物が地震で壊れ、まったく使えない店もあった。
建物が大丈夫でも中の配線等が分断されて、
そのうえスプリンクラーが勝手に回り品物が全部駄目になった所もあった。

数日後から、店の前にテントを出しての営業の店もあった。
なんとか店が再開しても1日2時間くらいの営業時間という感じで商品も揃わなかった。
主婦の友達は、とにかく食品を手にいれるのが大変だったとみんな話していた。

皆、立場が違っても共通しているのは「ひたすら我慢して耐えたこと」だった。

そして、原子力災害。
福島の場合、これが今もって解決していない。
あの水素爆発が起こった時は、皆それぞれにいろんな場合を想定して
その立場立場で考えそれぞれが動いた。

娘さんが赤ちゃんを産む友人がいた。
たまたま、そういう立場の友人が二人いた。
二人ともまったく違う行動を取っていた。

ひとりの友人は、原発の水素爆発が分った直後に、
真っ先に県外の旦那さんの実家に娘を避難させた。

ガソリンが無いのと高速道路がまったく通れないため、
とにかく、とても大変な思いをしてなんとか身重の娘を避難させた苦労話を聞いた。
自分の家からと旦那さんの実家からと両方で車で向かい、
引き渡す場所を決めて妊娠している娘だけを渡して来たという。
福島がどうなるか、まったく分らないので
娘とお腹の子だけは守らないという思いだけだったそうだ。

もうひとりの友人は福島で娘にお産をさせた。

実家も福島だし、娘も福島に住んでいるので上の孫の面倒もみるために
その友人はまったく避難とかは考えなかったと言う。
避難させるという事は、娘だけでは無く上の孫やそれに付き添う人も必要になる。
それは無理だと分ったので福島でお産という決定をしたそうだ。
いろんな情報もあったが政府の言う事を信じたという。

かかっていた産婦人科を変える事無く、
元気な男の子が震災から2週間後に生まれたそうだ。
彼女の家族達はいろんな事が報道されたけど、公に発表された事だけを信じて決めたそうだ。

また別の友人からは、なんとも理不尽な話を聞かさせた。
彼女の自宅は福島市内にあるが、旦那さんの実家が原発から100キロ以上離れた会津地方にある。
ご両親が亡くなって空き家になってるので、
20キロ圏内から避難して来た友人にその家を貸そうとしたら、
東京に家を構えている同じ歳の義妹に猛烈に反対されたのだそうだ。
「赤の他人に実家を貸すな」とそう言われたそうだ。
そして延々と電話の向こうで計画停電で東京の人間は大変な目にあってるという話を聞かされたそうだ。

私の友人は、結局その空き家は自分の実家では無いし、
そんな思いもよらない義妹の話を聞いてるだけで具合が悪くなってしまったと話していた。
とても20キロ圏内から避難して避難所にいる友人には、本当の事が言えなかったと言う。

また警察官となっている息子を持つ友人は、
こういう緊急事態が起これば、そうなる事は分っていた事でも、
実際に白い防護服を着て危険な場所を捜索するようになった自分の息子を思うと、
心配で心配で仕方ないと言っていた。

あの防護服は、暑いし、身動きがしずらいらしい。そしてとても破れ易いらしい。
そうした服を着て瓦礫の中から行方不明者を探すのは本当に大変な作業らしい。

そういえば、一時帰宅の一般の人達もあの防護服を着るようになった。
5月10日、最初の一時帰宅を許可された川内村の人達が、自宅へ2時間ほど戻った。
最初の頃、あの白い服を見た時の違和感も、最近では見慣れて来た。
どんどんあの防護服が見慣れて来るのだろうか。

皆それぞれ、いろんな立場で今回の災害に向った。

福島の場合、まだ原子力災害は続いているが、これも各家庭で受け止め方が違う。
小さな子供がいる場合と大人だけの場合とでも違って来る。

放射線については、まったく何も気にせず生活をしている人もいるし、
過敏に反応して福島から遠く離れた人もいる。

最近の報道では、仙台市から会津若松市への小中学校の教育旅行がほとんどキャンセルされているそうだ。
宮城県の発表では今現在、当初予定していた会津若松市への97校が行き先を変えたそうだ。

福島第一発電所からの距離は、仙台市へも会津若松市へも同じ100キロの距離。
自分達が住んでる市内と同じ範囲の場所なのに行き先が福島だから嫌なんだという。
そういう親達がほとんどなのだろう。

歴史的に昔から縁があった仙台藩と会津藩。放射線が縁を切った。

「会津県」という名前とかだったら、皆、来たのだろうか。
福島は全国3位の面積のある県だから、会津なんて他県と同じなのに。

中には知識のある人達は、そういう決定をした教育機関に抗議のメールや電話を送ったそうだ。
こんな時こそ同じ東北の県として支えてあげるべきだ。風評被害だ。仙台と会津は同じ距離だと。

しかし東北ですらそうなのだから、
他の関東圏の県からのキャンセルはどんどん相次いでいるそうだ。

要は、自分達の受け止め方の違いなんだと思う。
福島と聞いただけで、そう判断するか、それとも冷静に判断してみるか。
同じように福島から離れた人と残る人がいるように。

家はあるし、避難を強いられても無い立場の私の決定の基準は、
結局の所、自分達自身にあると思っている。それはあの水素爆発の後からずっと同じだ。
逃げるしか無い状態では無いのだから普段通りの生活をするしかない。

福島市の環境放射線の数値は横ばい状態が続いている。
上がる訳では無いけど、下がる訳でも無い。
福島第1発電所が何か作業をするたびにその後の値が気になる。

2ヶ月経って街は平穏を取り戻しつつあるが、
やっぱり私はなんとなく落ち付かない。

見ようによっては、まだ何も落ち着いていないから、
平穏さをひたすら装っているようにもみえる。
by mismis10 | 2011-05-11 23:32 | 東日本大震災
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