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日記で伝えたい「地震と原子力発電所の事」①

地震から1週間になります。
電気、ガスは大丈夫ですが、まだ依然と断水が続いています。
余震のほうは回数はおさまって来ましたが、やはり揺れています。

地震だけが落ち着けばなんとかなるだろうと安易に考えておりましたが、
その復旧がまだなのに、一番恐れていた原子炉の問題が現在起きています。

親戚、遠くにいる友人、仕事関係の友人、ネットの友人、ヒョンビン繋がりの友人。
私との繋がりがある人達が、電話やメールをするのを躊躇していながらも
気にしてくれているのが分かるので、日記を通して私の現状を伝えたいと思います。
みなさん、今のところ無事でいますので。

書きはじめは、地震さえおさまれば大丈夫だろうと考えていました。
不謹慎ですが地震が収まったならば、こんな感じだったんだよ、
という軽い気持ちで携帯で写真も撮れました。

今は画像を撮る余裕も無いので言葉でしか伝えらえない自分ですが、
これから先どうなるのかまったく分からないし、
ネットが繋がるならば、とにかく「書く」という行為に出ました。



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3月11日(金)【地震当日】

自然の恐ろしさをまのあたりに感じた。
国内最大級の地震を体験した。

買い物に行った先の駐車場に車を止めて出ようとしたら
なんだか変。体がぐらぐらする。
最初は自分自身の〝めまい〟かと思った。

ところが揺れは全然おさまらない。
乗ってる車全体が縦に横にと、
ハンドルをつかまないと座っていられないくらい揺れる。
あんな激しい揺れは初めてだった。
隣の車とぶつかるかと思うほど揺れた。
見れば、隣の女性も同じようにハンドルにしがみつきながら車の中にいた。

外に目をやると、お店の中からお客さんが走って出て来る。
テナントのお店の人達もエプロン姿のまま出て来た。
レジを打っていた店員さんも出て来た。

泣き叫ぶ子供を連れたお母さん。
足元のおぼつか無いお年寄り。
駐車場の手すりのフェンスにしがみつく人、人、人。
何かにつかまって無いと立っていられないのだ。

時間にして数分だったのだろうが、私にはとても長く感じられた。
揺れがおさまった感じだったので直ぐにその場を後に道路に出て家に向った。
地震で真っ直ぐで無い波打つ道路を走ったのは初めてだった。

大きな幹線道路は軒並み信号機が停電。
青、黄色、赤、の丸の中は三つとも真っ黒だった。
それが2キロくらいの道のり、延々とそうなのだ。
警察官の方もまだ立っていない状態だった。

前を走っていたトラックの後にピッタリ付いて、
横からの車をさけて、とにかく自宅へと急いだ。帰る事しか考え無かった。

途中、大きな銀行やビルから避難して来た人が大勢出て道路に呆然と立っていた。
ビルの谷間をさけて歩道へ大勢の人だかりが出来ていた。
古いレンガ造りの店を通れば、店の表面のレンガが歩道にボロボロと落ちていた。
まるでブロックを壊した感じに見えた。

橋を渡る時も怖かった。
このまま地震で橋が落ちたらと思うとヒヤヒヤした。
自分の住宅街まで来たら、ご近所の石塀が倒れていた。

車を止めて家の中に入ったら唖然とした。
まるで嵐が来たかのようなありさま。
食器棚は倒れ、扉から出た食器類が数センチの厚さに重なって床をふさいでいた。
台所の吊り戸は全開のまま、中の物はほとんど皆外に投げ出されていた。

2階に上がれば、箪笥は倒れて本箱はひっくり返り、
元の姿がどうだったか分からない状態。

とにかくどの部屋へ行っても、足の踏み場も無いのだ。
TVで見た片づけられ無いままゴミ屋敷化した家のようだった。

生活スペースを作るべき、
散乱したガラスと陶器の破片を片づける事にした。
これが凄く大変。
朝出勤して行った夫とは電話もメールも繋がらない。
たった一人だから数時間かかってなんとか歩けるくらいにした。

まだ2階には手を付けれない状態。
落ちて来た荷物の中でキッと目を見開きポーズをとる息子達の五月人形が悲しい。
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何年、いや何十年もかけて集めた
アンティークのスージークーパーの器がほぼ全壊状態。
一箇所のケースに飾って置いたのがアダになった。
ケースの扉が開き、全部放り出された状態。
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和モノの器もやられた。
大好きだった江戸時代の皿に、
お土産でもらった「こけし」が落ちて来て、
木っ端微塵に粉々だった。(こけしのバカ。)

もうこうなるとヘラヘラと笑うしか無い。
本当に悲しい時はこうなるのだと知った。

大きな地震が収まったと思ったが次なる試練が待っていた。
電気、ガスは大丈夫だが、まだ断水が続いている。

震度3、震度4の余震が続く。
普通だったら強く感じる地震だか
数分置きのこの余震に、だんだん身体が慣れて来てるのが分かる。

水は市役所の支所にもらいに行ったら、3時間半待つと言われて断念。
家にいるのは一人だし、かろうじて飲み水は買い置きがあったので。
ただ、おトイレはお風呂の残り水がだんだん減って来て焦る。
復旧の見通しは立って無いらしい。

TVの配線がちぎれて、見れないのでラジオでだけ情報をとっていた。

後からBS放送が見れるのに気が着いた。
惨状が次々放映されていた。
まだ私の所は良い。
悲惨な現状が延々放送されていた。

後から別の意味で、良いとは言えない場所になるとは、
この時は考えていなかった。






~3月13日(日)~

丸2日連絡とれない夫が朝方帰って来た。

やはり携帯が全然通じないらしい。
災害時に手伝う側の立場なので、荷物をとってまた直ぐに職場へ向った。

息子達は長男が仕事で来ていたお台場のビル内で一晩過ごし、
あくる朝、自分のアパートへ帰ったとの連絡があった。

次男はまったく連絡が取れなかった。
メールも電話も駄目だった。
いつもの事でも今回はどうも腹が立つと思っていたら、
長男に電話があり、韓国に出張で行ってるらしいとの事。
いったんは腹を立てたが判ってみれば安心した。

こうして始まった災害は、その後次々と難題が続く。

まずライフラインが駄目なのだ。
断水が始まって、給水場所に行けばペットボトル3本の水しかもらえない。
3時間はゆうに並ぶ。これは本当に大変だ。

並んでいる時に私よりもやや年配の奥さんが、
給水施設前にいた市役所の担当の若い職員に現状を強い口調で訴えはじめた。

言ってる事も十分に分かるが、
相手の若い職員が握りこぶしをじっと硬く握り締めて聞いてる姿が痛々しかった。
彼ひとりをせめてもどうしようもない。

また、ガソリンがまったくと言っていいほど手に入らない。
しかし、こうした危惧は序の口だった。

地震のための被害も収まらないのに、
今度は原子力の脅威にさらされる事になった。






~3月14日(月)~
東京電力の福島第一原発3号機が14日、水素爆発を起こした。
これは、地震の翌日の12日に起きた1号機の規模より大きい。
同時に分かったのは2号機も冷却機能が停止しているとの報道。

行政側に立つ夫はまったく帰って来れなくなった。
さらに、実家の弟も同様だった。

原子力被害から避難して来た
20キロ圏内避難勧告の人達を受け入れた町の行政側の人間なので家に帰れない。
もしかしたら、
その人達と共に自分の町民も、また別の避難所へと向うかもしれないという。
なんとか家族を連れて行ってくれないかとメールが来た。
実家に行きたくても、ガソリンが無い。

市内を走り回ったが、どこにも燃料となるガソリン、灯油、重油、がまったく無いのだ。
ようやく1件だけ見つけたガソリンスタンドは数キロにも及ぶ渋滞。
それでも何とか一人20リッターだけの給油を受けた。
5リッターとか10リッターとかの場合もあるので、幸運だった。

車のエンジンを切ったり付けたりして3時間並んだ。
こんな時、ガソリンを使わない方法は無いのかといらだつ気持ちで。

行って帰って来るだけは間に合う。

そこで入れたガソリンで実家の母と甥、姪、犬を連れて来た。







~3月15日(火)~
原子力発電所の深刻な事態がどんどんTVの画像で判って来た。

朝方、帰宅して来た夫が「地震だけならまだしも、原発が・・・」とだけ言う。
国とのやり取りなどを、口が堅い夫から聞けるのは僅かな事だけだ。
この人は身内にも一切余計な事を言わない。

自分の県なのに、私は福島に幾つの原子炉があるのか知らなかった。
第1、第2と合わせて10機の原子炉があるそうだ。
第2原子力発電所は6機の原子炉がある。それらは動いていない。
問題は第1原子力発電所内の4機すべてがやられてしまってる事だ。

次々と発表される報道をただ見てるしか無い。

夫が大丈夫だとは絶対に言わず
「わからない」としか口にしないのが事体が深刻なのを理解する。

水道が出ないのも、
ガスや電気が無いのも我慢する。
モノが無いのも我慢する。

お願いだから原子力よ。おさまってくれ。
それだけが願いだ。







~3月16日(水)~
連れて来た親族も安全かと思ったが、自宅は相変わらず水がまったく出ない。
市内の場所によっては出てる地区もあるらしいが、そこまでもらいに行く手段が無い。
給水場で並んで水をもらうのも限界に近い。
飲み水はなんとかなるが、トイレの水がとても欲しい。
家族の人数が増えた分、困るのが生活用水だ。
汲み置きのお風呂の水もあと少ししか無い。

TVで『汚染された可能性がある服は外で脱いで、ビニールにいれましょう。
シャワーで露出されてた皮膚を洗い流しましょう。』
なんて、絶対無理な事を延々と立派な学者さんが言ってるのを放送している。
見ていて悲しくなる。
TVが見れても何の意味もない感じがする。空しい。

汲み置きのお風呂の水が数センチという時に、
友人のJ子さんが連絡をくれ、彼女の実家の井戸水をいただく。
彼女のお母さんは、近くにある清水まで案内してくれて一緒に水を汲んでくれた。
ありがたい。
甥っ子を連れてわずかなガソリンを使って車で水を汲んで来た。
ちょっとの間かもしれないが安心した。
夜は久しぶりに麺を茹でた。
汁モノがあるのが嬉しい。
ご飯も焚けるだけ焚いておいた。

深夜になって夫が帰宅。
誰かと替わってもらったらしく、地震以来、久しぶりに布団に寝せた。
早朝、また電話が来て職場へ。
放射能が心配だが自転車で急いで向って行った。





~3月17日(木)~
もう地震から一週間になる。
その間が、長いのか短いのか自分でも考えられなくなって来た。
街は静かだ。走っている車も少ない。
スーパーはもちろんコンビニも売るモノが無いのか開いていない。
いろんな職場では自宅待機が多くなって来ている。

今の所、ゴミ収集車は来る。
ゴミを捨てに行った時に灯油のタンクを乗せた小さなトラックを見た。
歩いて少しの近所の灯油やさんに、ポリ容器を持って走って行ってみた。
でも、入って来る量が少ないから今まで買っていただいた人以外には売れないと言う。
涙が出た。
なぜ涙が出るのか、悔しいのか悲しいのか分からないがボロッと涙が出た。
可愛そうに思ったのか、ポリ容器に4センチほど分けてくれた。
軽いままのポリ容器を提げて家に戻った。

うちは冬のファンヒーター以外は使わないので、
ガソリンスタンドに車で行ったついでにしか灯油は買わなかった。

でも今回は母や子供達がいるので、
寒くないようにしようと買いに行っても、どこも売っていない。
小売店ならなんとかなるかと思ったが駄目だった。
お得意さま優先の気持ちはわかるが、こうなってみると人間って弱い悲しい動物だ。

帰って来たら、市内に住む友人が電話をよこした。
避難勧告の出た20キロ圏内から避難して来た、
原発に近い場所に住んでいた友人を一晩泊めて、東京へと向けて送り出したそうだ。
都心へ新幹線が通っている那須塩原駅までタクシーで行ったらしい。
高速道路は緊急車両のみ通行可能。
JRは地震以来不通になっている。
一般道路は、運良くガソリンを入れられた県外脱出の車で混んでるらしい。
行ける立場の人は幸せだ。

灯油が無い話をしたら
「生協さんが1世帯1・8リットルだと言って置いて行ったから困っていたらあげるよ」
と言われた。ありがとう。気持ちだけでも嬉しい。
でも取りに行くガソリンが残り少く無い。
なるだけ燃料を使わないようにしなくては。

姪の小学校の担任の先生から所在確認の連絡の電話がはいる。
弟にも連絡が取れないのだろう。
無事にうちに居る事を伝える。

TVでは自衛隊機の原子炉への水の投下がはじまった。

一回にヘリコプターから投下出来るのは約5トンぐらいだそうだ。
4回投下されて、いったん止まる。

お願いだから、原子炉よ冷えてくれ。
静かになって欲しい。頼むから。

TVをみていたら、
福島県内の放射線計量最高値の値がTVの画面でテロップで流れる。
マイクロシーベルトなんて聞きなれない単位が表示されている。
13.20マイクロシーベルトが現在の私の住む市の値。
この値が高くならない事だけを願う。
by mismis10 | 2011-03-17 14:42 | 東日本大震災
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